1978年12月25日、ベトナム軍は、亡命カンボジア難民からカンプチア民族救国統一戦線を組織し、元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命したヘン・サムリンを擁立し、ポル・ポト打倒を掲げカンボジアに侵攻した。
1979年1月6日、ベトナム軍がプノンペンを攻略、幽閉に近い状態にあったシハヌークは再び北京へ逃亡、クメール・ルージュはタイ国境近くまで駆逐される。1月10日親ベトナムのカンプチア人民共和国(People's Republic of Kampuchea)が樹立される。しかし、ヘン・サムリンのカンボジア人民党による政権は、ベトナムの傀儡政権であるとして世界各国の承認を得られなかった。
同年2月には中国軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争)。しかし、中国は実戦経験豊富なベトナム軍に惨敗し、3月には撤収した。1981年6月にサムリンは新憲法を採択し、フン・センが閣僚評議会副議長(副首相)に就任する。
1982年2月、巻き返しを図る反ベトナム3派(ポル・ポト、シハヌーク、ソン・サン)は北京で会談を開き、7月には3派による「民主カンプチア連合政府」(The Coalition Government of Democratic Kampuchea:CGDK)が成立し、サムリン政権との内戦状態に入った。
1983年2月に開かれたインドシナ3国首脳会談でベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、3月にベトナム軍はポル・ポト派の拠点を攻撃した。
埼玉で火葬ができるところをネットで探した。1984年7月の東南アジア諸国連合外相会談では、駐留を続けるベトナムを非難する共同宣言を採択した。しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に民主カンプチア連合政府の拠点を攻略、3月にシハヌーク派の拠点を制圧した。
1988年3月、ベトナム首相ファム・フンが急死し、政変が起こると、6月にベトナムは軍の撤収をはじめ、1989年9月に撤退を終えた。その結果、当時首相に昇格していたフン・センはベトナム軍の支えを失って弱体化し、内戦はさらに泥沼化した。
1990年6月4日5日、東京でカンボジア各派が参加する和平に向けた直接対話の場として「カンボジアに関する東京会議」が開催された。続く1991年10月23日、カンボジア和平パリ協定が開催され、最終合意文章(「国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)」の設置、武装解除と内戦の終結、難民の帰還、制憲議会選挙の実施など)の19ヶ国による調印に達した。ここに、20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。